むらさき川と小倉城
らさき川と小倉城はどんな関係があったのだろう?
むらさき川の流れと小倉の街とのつながりは、とても深いものじゃ。
小倉城の歴史もむらさき川とともに積み重ねられてきたのじゃぞ。 |
むかしむかしの小倉
むらさき川は小倉を貫流する

むらさき川は、水源地からすべてが小倉の地にあり、しかも町の中央を貫流しているので、本当の「小倉の川」ということができます。
しかし、何万年もむかしは、今の小倉の街は海だったと考えられています。響灘に向かって、東は上富野の延命寺あたりから、西は日明、到津あたりまで広く海の口が開いて、その海は三谷地帯まで入り込んでいたと思われます。やがて長い年月のかけて、むらさき川がたえまなく土砂を下流へと押し流たり、他のいろいろな自然作用によって今の小倉の土地ができたと考えられています。
つまり、古い小倉の地は今よりもっと南のむらさき川のはるか上流、大清水川、大滝川、合馬川の辺りにおこり、やがて中流の蒲生の方へ広がったということです。今の小倉の市街地はむらさき川のほとりに小倉城がきずかれて城下町となった1600年ごろから発達してきました。
細川氏より前に古い城があった
小倉城のおこりは、古い記録によると、1260年ごろ、緒方維重(おがたこれしげ)という人の居城であったといわれます。緒方維重が本当にどれくらい住んでいたか分かりませんが、そんなに古くから城があったということは、確かなことです。このころまでの城は、たいてい砦でしたが、小倉の城は、むらさき川にのぞんだ小さい砦の平城であったと思われます。
細川氏の時代
細川氏が大きい小倉城をきずく
小倉城は、勝山城、または湧金城と言われますが、今の深い壕と高い石垣は、細川忠興(ほそかわただあき)が宮津(みやづ:今の京都府の一部)から移ってきて、古い城をこわしてつくったものです。関ヶ原の戦いから2年後の1602年に工事を始め、6年間かかって雄大な新しい城が、ほぼ形を整えました。
完成された城は、東西2キロメートル、南北1.3キロメートルの広さに、やぐらの数は148、大小合わせて48の門、18メートルの高さの石垣の上に、22メートルもある5階だての天守閣がそびえていました。天守閣は唐風のつくりと言われ、掘は3重になっていました。城の外周は、東に延命寺、足立山、西に日明、到津、清水の丘があり、すぐ近くには、東にむらさき川、西に板びつ川があり、また城の外に出る門のそばと、海岸線には寺院を配置して砦の役目をさせ、城をしっかり守るかまえができていました。
城をきずくために集落を移す
細川氏は城をきずくため、城の周囲の町づくり計画をたてました。むらさき川の西の方は、古い城あとを広げて、本城と西曲輪(にしくるわ)をきずいて、これに板びつ河口に沿う帯曲輪(おびぐるわ)を続けるようにしました。さらに城下町の中心として、むらさき川の東岸に東曲輪(ひがしくるわ)を新しく開発するようにしました。これによって、むらさき川の西岸の四丁浜と呼ばれていた今のむらさき川橋から常葉橋あたりまでの集落を、平松に移すことになりました。また、このころ高浜と言われていた東岸、今の室町付近の漁民は、長浜に移動させられました。
小倉の土地の基礎づくり
小笠原(おがさわら)氏の時、むらさきかわ川下流の埋め立てがすすむ
小倉は、細川氏二代32年のあと、小笠原氏によって治められることになりました。播州明石(ばんしゅうあかし:今の兵庫県の一部)から小笠原忠真(おがさわらただざね)が、小倉城主になったのは、1632年で、それから江戸時代が終わるまで、約230年間続きました。
そのあいだ、城下町はしだいに開け、町のようすも変化してきました。城の中央を流れるむらさき川の東西の岸と、むらさき川にそそぐ神嶽(かんたけ)川近くの一角、それにいたびつ川口の一帯は、もと沼になっていました。城をきずいたころは、これが敵から城を守る役目をしていましたが、城下町が発達するにつれて、しだいに埋め立てられ、新屋敷になっていきました。
江戸時代の末、ペリーが来て、日本各地で海岸を防備するようになったとき、小倉藩は1863年(文久3年)むらさき川川口の東西に砲台場をつくりました。これが海に面し、むらさき川に沿った土地で、小倉藩が最後の仕事として行った工事です。
常盤橋は、小倉の町の西と東をつなぐ
小倉の町は、むらさき川をはさんで、東小倉(東曲輪)と西小倉(西曲輪)に大きく分けられ、東小倉の方が新しく、西小倉の方が古いことは、城ができるときのようすで明らかです。
むらさき川の川口の常盤橋は、東小倉と西小倉をつなぎ、またこの道は長崎街道でもあり、この橋のたもとには、本州への船つき場にもなりましたので、城下町のなかでも、特に大事な地点でした。この辺りに九州各藩の本陣(宿)が集まり、小倉城に近い西の岸には小倉城の客を迎える館があり、大変にぎわったものと想像されます。
近世の小倉
近世の小倉は、むらさき川下流で栄えた
江戸時代の経済は、米が中心になっていましたので、米の集まるところが経済の中心地になりました。小倉は米が集まるのに、むらさき川の水運が非常に役立ち、小倉藩は領内の年貢米を、城内の米蔵に入れていました。この蔵は、企救(きく)郡の米だけでなく、田川郡、京都(みやこ)郡などの地方からの米もたくさん入れられました。田川からは馬が利用されたようですが、京都、築城の方からは、船運によって回送され、むらさき川から城内の米蔵に送られました。
近世の小倉は、むらさき川の下流におこりました。松林をぬいて空にそびえる小倉城、町の東西を結ぶ常盤橋に人が行き交い、橋のそばに内海航路の船がつながり、流れをさかのぼって城内のはね橋の蔵に運ばれる年貢米を積んだ船がすべっていく.........そういうにぎやかな風景がそこにあったのでしょう。
小倉城は、江戸時代の末、長州藩との戦いで敗走する小倉藩自身の手で焼かれましたが、21世紀の今日、小倉の街は、近代商工業都市として、発展し続けています。むらさき川も古い時代から、姿を変えながら、小倉の川として、小倉の発展とともに流れ続けています。